2015年7月25-26日の函館開催でラフィアンの出走馬の鞍上がすべて丹内騎手という珍事が発生しました。
とかく批判の多いラフィアンの運営ですが、自分はラフィアンの運用は合理的かつシンブルで外部からもわかりやすい運用だと思っているので、それほどストレスは感じていません。
ただし、騎手の起用に関しては以前より疑問を感じていましたが、今回の一件でその本質がわかったように思います。
ラフィアンの合理的でシンプルな運用は、外部からもわかりやすくするとともに、外部に対する説明を少なくでき、内部の人間も楽になるということを狙ってのことと思います。
しかし騎手起用に関しては、明らかに運用を間違っています。運用手法が内部の合理化のためだけに適用されているように思うのです。
すべての馬に一流の騎手(ここで言う一流の騎手とは、勝利数の多い騎手のこと)を配置するのは、現実的には難しいと思います。勝ち負けまで難しそうな場合はクラブ御用達の騎手でもそれは仕方のないことですが、勝たなければいけないレースの場合は、それなりの騎手を手配して鞍上として迎えるというのが、外部にわかりやすい合理的な運用ではないのでしょうか?それが出走馬すべてに同一の騎手というのは、あまりにも運営の手抜き感がぬぐえません。
また、丹内騎手もある意味手抜き運営の犠牲者のような気がします。起用されるべきでない場面で起用され、結果を出せばまだしも結果が出ない。そのため余計な批判を浴びているように思うのです。
募集馬選定から育成、出走、引退までそのたぐいまれなセンスによって、合理的かつシンプルに運営されているにかかわらず、騎手選定だけは相変わらず疑問だらけ。どこかで書きましたが、やはりトップの思いがどこかで途切れているとしか思えません。自分の無能をしっかり認識して、体制の甘えにどっぷり浸からず本来あるべき合理性とは何かを認識し、仕事をすべきと思います。
自分たちが楽しちゃダメなんですよ・・・